印欧神話で読み解く『ウルトラマンコスモス』

映画四作とTV本編からなる『ウルトラマンコスモス』シリーズ。そのキャラクターには印欧神話とよく似た「ストーリー上の役割」、「キャラとキャラの関係性」がある。

 

この記事では、『コスモス』のドラマ性を神話に照らし合わせて読解していく。

 

さて、『コスモス』には神話とよく似た「配役」があるとは言ったものの、実は、その役割は絶対的ではない。

むしろ、終盤においてキャラごとの役割が変化していく事に、『コスモス』という物語の個性がある。

 

以下は基本的な配役だ。

 

・コスモストリト(英雄)、エモ()

・ムサシエモ()

・人間と怪獣牛、蛇

・カオスヘッダー蛇、敵

 

なお、ヒーローものと神話における、キャラクターの役割については以下の記事も参照してほしい。

https://manbou-romanbou.hatenablog.com/entry/2022/11/22/041417

 

コスモスとムサシは別人だが、一心同体でもある。印欧神話でいうと、ミトラ(太陽)とヴァルナ(水中に沈んだ太陽)が双子であるのと似たイメージ。そのため両者はエモ=双子的存在と解釈できる。

 

また、コスモスがムサシの夢(怪獣保護)を助けるので、「英雄に助けられる側」という意味でムサシはエモ=ヒロイン役。

 

人や怪獣は牛または蛇。つまり、ヒロインにも敵にもなる。保護される怪獣と倒される怪獣。人間は守るべき存在だが、防衛軍のように、人間が敵対者となる事もある。

 

カオスヘッダーは怪獣を狂わせる(=牛を奪う)蛇だと言える。生物に取り憑く特徴は、キリスト教のサタン(蛇型の悪魔)も連想させる。

 

これが基本。

 

この役割通りに進めば、その後の展開は勝手に決まる。つまり、ムサシはコスモスと一体であり、コスモスに変身する。コスモスは英雄として、蛇であるカオスヘッダーと殺し合う。

 

もし、コスモスがカオスヘッダーに勝てば、人や怪獣、そして世界は救われる(なお、人や怪獣は牛=ヒロイン役だが、牛は世界の象徴でもある)

 

戦いの結末は『片方の死』によって確定する。

 

しかし、実際のドラマは違う。カオスヘッダーもコスモスも死んではいないが、戦いは終わり、平和が訪れた。それは役割の変化によるものだと解釈できる。

 

トリト=英雄には、実は「物事の結果を確定する主体」という役割がある。

 

神話において、蛇・竜は嵐の象徴である。トリトも嵐や雷を象徴する(この点、両者は似たような存在である)。トリトが蛇を倒すことによって嵐は去り、晴れという結果が確定する。

 

他にも「闇光」「妊娠・難産出産」「世界創造、またはその反復」「冬から春への変化」など、さまざまな読み方ができる。いずれにしても、戦いが終わるまでは結果が出ず、『重ね合わせ』の状態にある。

(重ね合わせの話は難解なので、詳細は割愛。分かりづらかったら申し訳ない)

 

かくして、物語の終盤では役割が変わる。

 

カオスヘッダーは人や怪獣と同列の助けられるべき存在、エモに。

 

英雄(トリト)であり、主体的な行為や秩序の確定を担うコスモスは、今やカオスヘッダーとは双子のような存在=エモとなった。

 

そして、コスモスと分離したムサシは決断する。カオスヘッダーを倒さず、和解することを。

 

もはやムサシはコスモスの双子的存在ではない。誰を倒し、誰を倒さないか。ムサシはそれを選択する主体となったのであり、主体としてのマヌ、英雄としてのトリト──つまり、かつてのコスモスのような役へと変化したのだ。

 

神話において、トリトを援助するのは神々であるが、ここでムサシを助けたのは怪獣たちであった。最終的に、カオスヘッダーは改心し、コスモスと和解。地球を去るコスモスを、ムサシたちは見送る。

 

こうして、TVドラマ『ウルトラマンコスモス』という神話が完結する。さわやかな太陽の光と、春の野のような温かさをもって……

 

余談

 

エモには『重ね合わせ』という象徴性がある。それは生と死、光と闇、太陽と雷雲、出産と流産、男と女、などの重ね合わせである。

 

それは「どうなるか分からない、結果の重ね合わせ」あるいは「可能性の重ね合わせ」とも表現できる(この表現を、量子力学的なモチーフと結びつけて語る人もいる)。そこから結果を確定するためには、蛇と英雄の戦い、難産の苦しみというプロセスが必要なのである。

 

また、蛇と英雄の同質性に着目すれば、両者をエモのバリエーションとして見ることも可能である。雷は「闇の中の光」であり、光と闇の重ね合わせである。また、雷雲と太陽は両立しないのである。

 

ウルトラマンコスモス』では、様々なキャラが同質性を持ち、二面性を持ち、相対性を持つ。そのため、このドラマでは「敵味方」「善と悪」「正しい事を判断できる大人/判断できない子ども」といった二項対立がどんどん曖昧になっていく。

 

これを「可能性の重ね合わせを表現したドラマ」だとか、「様々なキャラがエモ役へと変化していくドラマ」と表現しても、さほど的外れではないだろう。

 

余談・2

「コスモスはカオスヘッダーを洗脳しただけ」という見方もある。その事について書こう。

 

まず、僕は「洗脳」だとは思わない。なぜなら、彼がカオスヘッダーを浄化できたのは彼に和解の余地があったからであり、ムサシが和解という決断を取るまでには、長い葛藤があったからだ。それまでの間、コスモスは一貫して「カオスヘッダーを倒すべき」という立場を取っていた。

 

逆に、「コスモスの浄化は洗脳と紙一重だ」と捉えてみるのも面白い。それこそ、「心を浄化するコスモス」と「心を狂わせるカオスヘッダー」には同質性があるという事になるからだ。

 

(終)

ヒーローものの基本とは何か

ヒーローものの基本とは何か。個人的な定義をここに記そう。

・ヒーローものの基本、本質、および起源は『英雄神話』と『愛着理論』によって説明されるべきである。

・ヒーローものの基本構造は、「ヒーロー役」「ヒロイン役」「敵役」の三役によって構成される。

・敵はヒロインを害する。ヒーローはヒロインを助ける。ヒーローと敵は対立する。

・これは印欧神話(インドやヨーロッパの神話)の基本パターンとも一致する。すなわち、ヒーロー役は「トリト(英雄)」、ヒロイン役は「エモ(双子)または牛」、敵役は「蛇」にあたる。

・日本神話で言えば、ヒーローは「スサノオ」、ヒロインは「クシナダヒメ」や、その両親、敵役は「ヤマタノオロチ」という事になる

(※日本神話は印欧神話の一種ではないが、共通のパターンも有している。スサノオのような、竜殺しの英雄は、その一例である)。

・ヒーローものの基本は「安心と恐怖」の二項対立、またはそれに近い構図である。つまり、「正義と悪の対立」はヒーローものの本質ではなく、そのバリエーションにすぎない。

・優れたヒーローとは、ヒロイン役に対する「擬似的な親」、「安全基地(英:Secure base)」であり、その関係性の起源は哺乳類に特有の「愛着(英:Attachment)」ではないかと思われる。

・愛着理論についての解説は長くなるので、この記事では行わない。手早く知りたい人は、以下の資料を読むと良いだろう。

https://yumemana.com/labs/safety-base/

・また、この記事の内容は以下の記事に影響されている。

https://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column78.htm

ゆうがたエクスマキナ感想(3/3)「偽りの平和、世界と個人の対立」

この記事ではかなりセンシティブで個人的な話をする事になる。ただ、ウルトラシリーズの批評から外れた文脈ではないという事を、どうか念頭に置いてほしい。

 

古い日本人にとって、戦争といえば「第二次世界大戦」だった。彼らの多くは戦争を実体験し、その苦しみを知った。戦後の苦労も忘れてはいけない。

別の世代では、また別の見方があった。例えば、湾岸戦争を知る世代だ。「テレビゲーム戦争」とも呼ばれたその戦争は、実体験ではなく、テレビの画面越しに見る、遠くの国の戦争だった。

さて、僕は一般的な日本人とは「戦争/平和」のイメージが少し違う。というのも、僕は純日本人ではないし(※母がタイ人)、日本人の父から虐待を受けていたからだ。

父は「話が通じないなら殴るしかない。戦争と同じだ」と、繰り返し言った。また、彼はヒーロー好きで、コスモスやネクサスを指して「ほら、オレのやり方はウルトラマンと同じだ」と言う時もあった。

それを聞いて、幼き日の僕は「そんなわけない」と思った。それは同時に「父のような偽善者と、本物のヒーローを区別するものは何なのか」と、考え始めるきっかけだった。

 

父との問題に関して、警察や教師や児相といった「地域の大人たち」は大して役に立たなかった。むしろ、父の味方となることさえあった。すると、生まれてから20年経つ内に「地域の大人を信じれば助けてもらえるはず」という思い込みは消えた。代わりに「周囲の人間は敵かもしれない」と思うようになった。

また、父は「戦争」以外にも「武士道」を引き合いに出したり「家」や「民族」を引き合いに出した。例えば──

「お前は日本人になるのか、タイ人になるのか。タイ人になるなら日本から出てけ!!」

…とかね。これは「日本が好きならオレに従え」って意味。酷いでしょ。

また、警察は日本の法律に従い、「民事不介入だから」と言って、父を野放しにする。学校だって「アフリカの貧しい国と違って日本は良いところなんだから、感謝しなさい」などと偉そうに言う。

つまり、「日本であること」が地域の基準を定めていたし、僕はその基準に保護されつつも、同時にさまざまな害を受けていたわけだ。

不幸自慢はこれくらいにするが、とにかく、一人の人間として強いコンプレックスがあったのだ。

平和・戦争・物語に。

 

さて。僕が思うに、平和には二種類ある。

それは「派手な平和」「地味な平和」だ。(大きな平和、小さな平和、と呼んでもよい)

我々はTVの前で、他国のむごい光景を見たり、終戦記念日の特番を見るだろう。そこにあるのは「派手な平和」だ。

ULTRASEVENXで例えれば「飛行船の画面に映るエイリアン同士の戦争」や「救世主とエイリアンの戦い」がそれだ。地球には派手な平和があるのだ。

だが、もっと小さな問題は目立たない。戦乱や殺人を伴わず、時にはゆっくりと進行する問題。貧困・虐待・違法労働・性暴力・心身の病などだ。

これもULTRASEVENXで例えれば「ホープレス(希望を持たない人々)を救うこと」にあたるだろうか。しかし、DEUSの仕事はエイリアン退治だし、ホープレスが地球を揺るがすことはない──少なくとも、彼らが兵器製造に関与していない限り──。皮肉なことに、彼らも自分の「やりたい仕事」をやっているだけだった。その立場、考え方は、DEUSエージェントと何ら変わりないのだ。

 

さて、「もしも小さな問題から、世界を揺るがすような大きな事件が起きたら…」と考えた事がある。例えばテロだ。テロは個人でも起こせるが、国々を揺るがす。それを物語に昇華しようとした矢先、「安倍元首相の暗殺事件」が発生した。

その犯人はまさに、宗教・家庭・金銭といった「世界にとっては小さな問題」を抱えていた。だが、彼にとってどれほど大きな苦痛だったか。個人の苦痛に、世界平和もクソもない。

驚くことに、僕も、宗教と家庭と国が絡む話を書くつもりだった。だから「うわっ、現実に先を越された!?」と思った。

犯人は逮捕されたが、それは結末ではない。もし、彼がエイリアンなら──『エイリアン』とは、もともとは異邦人(外国人)を指す言葉だが──彼を倒せば話は終わる。けれども、彼はエイリアンではなかった。我々の物語はまだ序盤で、偽りの平和が揺らいだにすぎないのだ。しかも、多くの小さな問題を抱えている。

 

そろそろ『ウルトラマンZ』の話をして終わろう。

ウルトラマンは地球人の問題に干渉できない」というルールは、警察の「民事不介入」にも似たルールだ。それに、地球人の問題は宇宙から見れば、"小さな問題"に過ぎないとも言えるだろう。

けれども『Z』では、特殊なパターンが登場する。セレブロだ。セレブロは「地球人の自滅に見せかける」という形で地球を滅ぼそうとしたし、同様の手口でいくつもの文明を滅ぼした。言い換えれば「小さな問題に見せかける形で、宇宙全体の平和を揺るがしていた」のである。

そんな大悪党と死闘を繰り広げた、ストレイジの隊員と、ウルトラマンZ、そしてジャグラス・ジャグラー。彼らの活躍によって、セレブロの野望は破綻する。

僕は彼らの物語に「偽りの平和ではない何か」を感じた。それはきっと大事なことだ。

(完)

ゆうがたエクスマキナ感想(2/3)「人類の自立とグラキエス」

ウルトラセブンXの世界はその後どうなるのか。興味深いテーマだと思う。

「実のところ根本的な問題は解決していないのではないか」との指摘もあって、確かにそうだも思う。しかし、あえて異論を考えてみたい。

まず、仮にも星全体の支配者が滅びたのだから、あの世界では緩やかに、けれども決定的で、不可逆な変化が起きるはずだ。

偽りの平和が消え去り、きっと数々の問題が剥き出しになるのだろう。混乱、戦乱が起きるかもしれない。

だが、地球人同士の問題にセブンが干渉することはできない。ましてや、別宇宙の地球に。
セブンは『救世主』としての役目を十分に果たしたし、人類は自立のキッカケを得た。そういう意味では王道の結末だと思う。

 

ところで、このような考察に関連して、僕の実体験や『ウルトラマンZ』に関する話を考えた。続きは別の記事に書くとするが、一つだけ、先に書いておこう。

ULTRASEVEN X』が人類の自立を描いていた物語だとすれば、同じく「宇宙人の支配と人類の自立」を描いた『ウルトラマンZ』は良き比較の材料になる。僕はそう予想する。

 

ゆうがたエクスマキナ感想(1/3)「キュラソ星人の悲哀」

キュラソ星人の悲哀】

ウルトラセブン第七話「宇宙囚人303」を見た時、僕はこう思った。脱獄囚が悪者なのは本当で、キュラソ星政府は地球からの報復を恐れて連絡を入れたんじゃないかと。
(なにせ、宇宙は戦争まみれだし、ウルトラ警備隊は怖いし…)

しかし「物言わぬキュラソ星人が勝手に悪者扱いされてしまう怖さ・哀しさ」という解釈も面白い。

たしかに、あのエピソードを見た時は妙な違和感があったんだよなあ。
それがこんなに深い話だったとは。

「言葉によって善悪が決められてしまう」という要素も結構深い。世界の基本は言葉(名前)だ。
ノンマルト人だって「ノンマルト」や「地球人」という言葉でセブンを惑わしているのだ(注:ノンマルトは地球の先住民を自称する種族で、実際に、M78星雲の古い言葉では地球をノンマルトと読んでいたらしい)

仏教や老荘思想、すなわち東洋哲学風に言うなら、善とか悪といった概念は「言葉による分別」の一種に過ぎない。海や地上、〇〇民族、〇〇人、星や国もそうだし、宇宙だってそうだ。そういった「言葉による分別」は、必ずしも真実を表すものではない。

だが、我々は言葉を使うし、自分たちの言葉でコミュニケーションをする。コミュニケーションが失敗すれば、誤解を生んだり、戦いにもなる。いやいや、人を騙す言葉だってあるし、聾唖者を利用するゼラン星人、言葉が意味をなさないガゾートなど、ウルトラシリーズにもさまざまな例があった。

宇宙と分別といえば、仏教には「三千世界」という概念がある。我々の住む世界は「娑婆(しゃば、サハー)」という世界で、その他も含めて1000の三乗…すなわち、10億もの世界が存在するというのだ。これは現代でいうマルチバース」の先取りだろう。
そうした世界観では「宇宙の正義は一つなんだ」と言ったところで意味はない。それこそ、宇宙自体がいくつもあるのだから。

けれども、ウルトラシリーズに「マルチバース」の概念が登場するのは、もっと後の話だ。

 

日記(2022/10/20)

・二、三日、事故や事件の凄惨な記録を見漁っていた。見過ぎたかもしれない。霊感はないけど、夜のお風呂が怖いw

・Switchでゼルダの伝説を遊んだら、妹に横取りされて草。

サンダーフォース4は面白い。難易度は高いものの、キッズモードやセーブ機能を使えば結構イケる。

・ゲームクリア後、STYXでプレイできるのも最高。

・知り合いからのアドバイス

「あなたは敏感で感受性が高い。視野を広げすぎている。バランスを取るべき」

「神レベルの視点で世界を見ようとせず、人間としてのレベルで生きていればいい」

「ネガティブなビジョンしか思い浮かばない時は、無理に挑戦しなくていい」

「あなたは多分〇〇よりも精神レベルが高いし、〇〇の言葉に傷つくよりは『縁がなかった』と考えた方がいい」

楽になった。

・「仏教とガンダムウルトラマン」について記事を書きたかったけど、その前に仏教の復習が必要かも…

・「王道ヒーローの条件」を自作品用に構築中。思うに、ヒーローの本質は正義ではなく、安心である。

・「マニ教の解説」を書くか書かないか迷っている。マニ教に限らず、きちんとした文章を書くのはなんか大変だ。

オリジナル六属性

【オリジナル六属性のリスト】

・気

・風

・明

・闇

・火

・水

【元ネタ】

主にマニ教五行説が元ネタ。

【気】

空気、エーテル、煙、灰、大地。二足歩行の魔物に対応する。悪鬼など。

【風】

風、嵐、砂嵐、植物。空を飛ぶ魔物に対応する。鳥など。

【明】

光、太陽、月、輝き、金属、清浄。氷と金属。

【闇】

闇、穢れ、サビ、腐敗。地を這う魔物に対応する。龍、蛇など。

【火】

火、熱、争い、血液。四足歩行の魔物に対応する。馬や獅子など。

【水】

水、毒、泥(スライム)、塩水。海を泳ぐ魔物に対応する。魚など。